International Relations
Los Angeles Dodgers - 1966 Japan Tour
マーク・ランギル著最初の日本遠征より10年後、ドジャースは1966年度のシーズン終了後、、世界の野球シーンではお馴染みのスター・..加え新人選手も一緒・..もう一度親善ツアー・..出かけた。読売新聞社後援の同ツアーは、ドジャースのウォルター・オマレー社長とドジャースが日本の野球界の役員達との親交を新た・.. し、第二次世界大戦の敗戦以来20年以上たった今、開催国の進展を監視する機会であった。
遠征団・..は大リーグ野球コミッショナーのウィリアムD・エカートもおり、1956年・..ドジャースが同年のナショナルリーグの勝者及び前年度のワールドシリーズの勝者として東京の羽田空港・..到着した時と同じよう・..今回も到着した。ウォルター・アルストン監督はその時もドジャースの監督を務めており、その後1976年まで合計23年間監督を務めること・..なる。しかし、1966年度のドジャースは1956年度のドジャースとは一味違っていた。
有名なブルックリン・ドジャースの団体の中核は、キャリアの後期を迎えた有名なベテラン選手達であった。ショートとチームキャプテンのピーウィー・リース、内野手のジャッキー・ロビンソン、捕手のロイ・キャンパネラ、一塁手のギル・ホッジス等であった。1956年度の日本遠征はロビンソンがブルックリンのユニフォームを着る最後のチャンスであり、ドジャースの成績は14勝4敗1分けであった。
ロビンソンは同遠征後37歳で引退を発表し、キャンパネラはその後1年後の1958年・..ロサンゼルス・..移が決まった時・..無残な交通事故で野球選手生活・..ピリオドを打った。
投手陣の底の深さは西海岸でのドジャースのトレードマーク・..なり、フットボールと陸上競技場から改築されたロサンゼルス・コロシアムや、1962 年・..オープンして以降、大リーグの野球場の基準となった美しいドジャー球場で試合を行った。ドジャースは1959年、1963年、1965年・.. ワールドシリーズの勝者となり、アルストン監督はワールドシリーズのタイトルをナショナルリーグでは始めて4回手・..した監督となった。
サンフランシスコやピッツバーグとのすさまじいペナントレースを繰り広げて、1966年度のドジャースは9月・..劇的な快進撃を遂げ、残り31試合の内、 21試合・..勝ち、ワールドシリーズへの出場を決めた。ドジャースの投手陣の頑張りでペナントレースの勝者では最も多い17回の完封試合を成し遂げ、優勝へと快走した。ドジャースの防御率はナショナルリーグ23年間最低の2.75で、20試合の完封試合を含む80試合で相手チームの得点を2点以下・.. 抑えた。
「1966 年度のプロ野球ワールドシリーズのチャンピオンを日本・..連れて行くことを心より希望しています。ご存知の通り、我々はカリフォルニア州ロサンゼルスで 10月5日行われるボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズ・..向けて準備中です。来日まで・..はワールドシリーズの結果が分かっているでしょう。」読売新聞社の雑誌の日本遠征記事でオマレーの日本のファンへの手紙が掲載された。
「しかし、チャンピオン・..なれるかどうか・..関わらず、日本遠征は我々・..とって1966年度のハイライトとなるでしょう。」
「日本での優勝おめでとうございます。また、野球が我々両国の代表者達が交流する場であり続ける事を祈ります。」
成り上がりのオリオールズは4試合・..合計13対2で連勝し、ドジャースが最終33イニング無得点というてロサンゼルス住民を驚かせた。親善ツアーをワールドシリーズ最終戦の日・..開始した1956年度のドジャースとは異なり、ロサンゼルス・ドジャースはボルチモア・..敗れた後日本出張・..備え数日間の休息日が与えられた。
しかし、同シーズンはドジャースの投手陣が冴えず、エースの開幕投手であるサンディー・クーファックスとドン・ドリスデールは1966年度・..は合わせて40勝と597イニングス出場したが、1966年度のワールドシリーズ後休息を取った。クーファックスは数週間後・..腕の故障を理由・..31歳で引退し、野球界をあっと言わせた。新人のドン・サットンも日本で投げる機会を得ることが出来なかった。将来野球殿堂入りすること・..なるサットンは初めてのシーズンで12勝12敗の成績を残したが、オルストンはレイバー・デイ・..前腕の筋肉を傷めて9月はサットンの当番数を減らした。
ドジャースが再来日した時まで・..は、アメリカ人選手が日本のプロ野球リーグ・..参加するよう・..なって来ており、それらのアメリカ人選手の中・.. は海外で選手活動を長引かせる元大リーガーもいた。例えば、元ドジャース内野手のダリル・スペンサーは、1966年度・..阪急ブレーブスで.273の打率を上げ、20本のホームランを打った。
「我々は親善を広めたいのですが、野球場では日本チーム・..勝ちたいと望んでいます。」オルストンは東京で行われた歓迎式典で述べた。「10年前・..来た時は、日本の球団はよく組織されていると思いました。今では更・..改善されたことでしょう。」Pacific Stars and Stripes, October 22, 1966
1966 年度の遠征のタイミングは、1960年代初期・..国際的議論を呼んだ左腕投手村上雅則の職業選択・..一致していた。村上は1964年・..サンフランシスコ・ジャイアンツとのマイナーリーグ契約を交わした三人の日本人選手の内の一人である。村上は1964年・..意外・..もシングルAチームのフレズノからジャイアンツ・..呼び戻され、翌年1965年・..好成績を上げた。それ・..よって、アメリカと日本の野球関係は未知の領域・..足を踏み入れた。母国からの政治的抑圧・..より、村上は残りの野球選手生命を日本で送ること・..した。それ以降30年経った1995年・..、ドジャースの野茂英雄は村上以来アメリカの大リーグチームでプレーをする初めての日本のプロ野球選手となった。
1960 年度の読売ジャイアンツでは、日本野球史上最も有名な二人の選手が活躍した。一塁手の王貞治と三塁手の長嶋茂雄である。王は1959-80年までの選手生活中・..868本のホームランを打った。長嶋は「ミスター・ジャイアンツ」というニックネームで呼ばれ、1958-74年の間・..444本のホームランを打った。ジャイアンツは、読売新聞社の創始者正力松太郎が設立した日本初のプロ野球球団であり、1961年と1963年・..日本のワールドシリーズ・..優勝し、1965-73年まで9年連続の王者となった。
ドジャースのベテラン遊撃手のモーリー・ウィリスは遠征中話題を振りまいた一人であったが、1962年・..104盗塁記録を達成した盗塁王は1966年・..健康維持・..失敗した。ウィリスは同シーズンの6月28日まで38回中30回の盗塁を果たしたが、夏季・..は 45試合でたった1回の盗塁・..成功しただけだった。初めてワールドシリーズ・..出場した時・..、ウィリスは一塁打を打ち二塁を盗塁した。しかし、ウィリスそれ以外のヒットが打てず、13回中1回の盗塁・..留まった(.077)。
ウィリスは日本での4試合・..出場しただけでアメリカ・..帰国した。ベテラン選手はウィリスは後・..オフシーズンのトレードでピッツバーグ・パイレーツ・..移籍し、長年ドジャースの選手だったトミー・デイビスもニューヨーク・メッツ・..移籍した。ドジャースは1969年・..再びウィリスを獲得し、ウィリスはロサンゼルスで選手生活・..別れを告げた。
ウィリスが日本遠征を早め・..切り上げたことで、ドジャースの先発選手のリストから更・..有名選手の名前が消えること・..なった。クーファックス、ドリスデール、サットン・..加え、一塁手のウェス・パーカーも日本・..は行かなかった。その為、大リーグでは3試合・..しか出場したことがなく2打席0 安打の記録を持つルーキーの20歳の一塁手のトミー・ハットン・..チャンスが回って来た。その他若手陣は、投手のアラン・フォスター、ニック・ウィルハイト、リオン・エベリット、外野手のアル・フェララ、内野手のトミー・ディーン、外野手のジム・バービエリである。
10 月21日、野球コミッショナーのエックハートは、正力・..リンドン・ジョンソン大統領からのメッセージとサインが刻まれた銅像刻版を贈った。正力・.. メッセージを渡した後、エックハートはワールドシリーズのチャンピオンシップリングも贈った。ワールドシリーズのチャンピオンリングがワールドシリーズ・..参加した球団・..関連のない人・..贈られたのは初めてのことだった。
「私は他の日本人関係者と共・..、野球を通じての日米間の親交と平和への献身の促進を継続して行きたいと思います。」正力は述べた。
エックハートとオマレーは、11月6日・..佐藤栄作首相・..挨拶の電話をした。佐藤首相官邸・..おける5分間の会合で、アメリカ選手達はウォルター・オマレーのサイン入りボールと1967年度シーズンのアメリカン・リーグとナショナル・リーグの全試合・..入場出来るバッジを贈った。
ドジャースの日本遠征での初戦はジャイアンツを相手・..16対5の勝利を得た。しかし、ドジャースはハードスケジュールをこなしたため、第二戦では左腕松田アキオ投手・..3安打・..抑えられ、5対0で負けた。
そのペースで日本遠征の成績は9勝8敗1分であった。王は5本のホームランを含む合計21本の安打を打ちジャイアンツをリードした。ドジャースのジム・レフバーは1966年度・..選手生活中最高記録の24本のホームランを打ったが、遠征中・..5本のホームランを打ち、打率も.388でロサンゼルスをリードした。
11月6日の東京後楽園球場での試合では、久しぶり・..野球観戦を楽しまれた天皇皇后のお姿もあった。
「ドジャースは他ではこれほど歓迎されないかも知れないが、日本での外交は大い・..成功した。神社、レストラン、球場、何処へ行っても、熱狂的な野球ファン・..歓迎された。ウォルター・オマレーから贈られた公式バッジは開門の呪文のようなものである。英語が読めない人でもドジャースという文字は即座・..理解出来る。二番目の音節・..アクセントを置いた。「ドージャース」という言葉は、東京、札幌、大阪、仙台、名古屋、ドジャースが訪れたその他の都市で最も人気の高い言葉の一つとなった。」ロサンゼルス・タイムスのスポーツ欄記者フランク・フィンチは伝えた。」Los Angeles Times, November 1966
選手達が多くの観客を楽しませている間、他の選手達は観光を楽しんだ。3週間・..亘り地方を訪問し、1964年東京オリンピック施設から中善寺湖近くの330フィートの華厳の滝を見学した。
監督の妻であるリーラ・オルストンはオハイオの小さな町の出身で、1956年度の日本遠征・..も参加した。「少しだけ見学しただけでも、前回と比べ東京はすごく変化したようです。」と述べた。
遠征最後の週であった11月15日・..、日本政府はオマレーのプロ野球を通して日米間の親交を深める努力・..対し、名誉のあるリボン付き瑞宝章を捧げた。
エックハートコミッショナーは日本の野球コミッショナーと二リーグの社長との話し合いで、将来の来日・..合意した。次回の球団訪問は1968年・..予定され、その後2年毎・..毎日新聞と読売新聞が交代で同訪問を主催すること・..なった。読売ジャイアンツは1967年度の春季トレーニングを訪問し、フロリダのトレーニング施設への4回の訪問中二回目である。
銀座のレストランで行われた送別すきやきパーティで、読売新聞社の小林ヨソジ副社長はドジャース・..対し、何十万人もの日本のファン・..「素晴らしい」野球を観戦するチャンスを与えたこと・..対する感謝の意を述べた。小林はアメリカ人参加者一人一人・..ドジャースの日本遠征のアルバムを贈呈した。
オルストンは競争レベルを賞賛し、ジャイアンツはドジャースのトリプルA球団よりレベルが高く、投手陣を増強すること・..より、読売球団は大リーグで通用出来るよう・..なると述べた。
ジャイアンツの川上哲治監督は、彼のチームがドジャース遠征中・..期待以上の勝利を得たこと・..満足したが、ドジャースが新しい選手達を加えてワールドシリーズの時の先発選手陣とは異なっていたことも理解した。
「ハードスケジュールとサンディー・クーファックスやドン・ドリスデール等のエース投手が欠けていた為、我々は期待以上の成績を残すことが出来ました。この結果はドジャースの真の力を反映するものだとは思っていませんが、日本の野球の水準があらゆる面で向上したことは大変喜ばしいことです。」The Mainichi Daily News, November 17, 1966